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フランス在住の歴史学徒に「黄色いベスト」について聞いてみる(パート1)

マスヤマ:ユウタくん、ブログの連載「黄色いベスト運動」を、とても興味深く読んでいます。まだ続いている最中ですが、せっかくこの「とりま。」という場もあるので、いくつかコメントと質問です。

私は、たまたまこの数年、パリに何度か行っているし、フランス語はできないけれどフランス人の知り合いも少しは居るので「シャンゼリゼが燃えている」や「スタバがメチャクチャに壊されている」映像を見ても、ほとんどびっくりしません。とはいえ、ユウタくんの学生に近い人が爆発物で片手を失うという話は衝撃だし、東京の安全さにあらためて感謝したくもなります。

一方、長い目で思い出すと、2002年にユーロの現金が導入されたとき、直感的に「これ無理!」と思いました。私が最初にヨーロッパに行ったのは、なんと1972年という昔で、その頃に見たギリシャやイタリアなどが、ものすごく(良くも悪くも)前近代的なことを知っていたからです。あんな国の田舎のお婆ちゃんたちが、国が決めたからといってすぐにユーロを使うようになる、というイメージがまったくわきませんでした。

しかし、政治と経済の力は強く、その後はそれなりに安定した「ユーロ圏」ができつつあるように見えていました。10年くらい前ですが、ヨーロッパの空港でたまたま近くに居たので話していた(欧米で、そういうことはよくある)ビジネスマンと国籍の話になり「私はヨーロッパ人です、以上」的な答えが返ってきて印象に残っています。

さらにしかし、(歴史学徒にはシャカにセッポウですが)歴史には「揺れ戻し」がありますよね。黄色いベストに限らず、ここ数年のユーロ(EU)圏の状況は、ヨーロッパが今でも、何百年も続いた血なまぐさい戦いの歴史を生きているんだな、と嘆息したくなるほどに見えます。

さて、質問です。
・フランス語のメディアやコメントで(ユウタくんが見る限りで)、これを「階級闘争」と明確に位置づけている動きはありますか?

・マクロンが辞めざるを得ないような状況はあり得るんでしょうか?

ジニ係数を見る限り、フランスは急激に「格差や不平等」が広がっているようには見えないし、EU圏の中で突出して高い、ということも無さそうです。それはそれとして「格差や不平等」への不満が溜まっていて、燃料税の値上げで爆発した、ということでしょうか。そんなに単純化できる話では無いとも思いますが

とりあえず、ここまです。(マスヤマ)
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世川祐多から
リアクション1. 体感するユーロ・体感する非現代社会としての欧州

引用「長い目で思い出すと、2002年にユーロの現金が導入されたとき、直感的に「これ無理!」と思いました。私が最初にヨーロッパに行ったのは、なんと1972年という昔で、その頃に見たギリシャやイタリアなどが、ものすごく(良くも悪くも)前近代的なことを知っていたからです。あんな国の田舎のお婆ちゃんたちが、国が決めたからといってすぐにユーロを使うようになる、というイメージがまったくわきませんでした。(マスヤマ)」

これは、人間の感覚の問題と、ヨーロッパの社会構造の変わらなさが端的に表されていると思いました。まず、経験するか否かということが、現実の状況をより実感できるか否かに大きく関わるというクリティカルなご指摘です。

たとえば、私の祖父母は東京大空襲を体験しており、私は孫でこそあれ、体験していない。すると、東京の住まいの両国には慰霊堂もありますし、空襲のドラマとか写真を見ていますが、おぞましいこととは思えても、究極には体感していないから、僕には感覚として空襲下を逃げ惑うのがどんなに怖かったかわからないのです。

マスヤマさんが、半世紀近く前の欧州を実際に歩いて、目で見て、現地の金を使ってという体験の中で、今のユーロという統合通貨を感覚的かつ現実的に知っていることは、僕の感覚より遙かに深い洞察と分析をもたらします。その感覚「これ無理!」は正しかったわけです。

もっとも、こっちの人たちも、「ヨーロッパの統合、経済的にも強い一つのヨーロッパのため」と信じて、辛い物価高の中で、「ユーロはそれでもいいことだ」というように思い込もうとしてきましたが、もうそれは無理だというところに差し掛かったのだと感じています。

また、私と同じ30歳前後の人は、10歳ぐらいまで通貨はフランでしたから、物価が安かった時代をなんとなく知っています。私も子供の頃、ちょっとタバコ買ってきてと、カートン買いさせられてましたから、3,000円ぐらいもらって、残りはお駄賃になっていたのに、最近日本でタバコを買うと倍はするので、いかにタバコが値上がりしたか痛感できるのです。

フラン時代を本格的に知っている中年層以上になれば、「フランだった昔はよかったのに!」という思いを購買のたびに常に感じながら生活しているのです。そういう人たちがよく例えるのは、みんな「昔はクロワッサンが、カフェオレが…」というものです。この点、すでにフランスに行った時にユーロであった僕の感覚の乏しさとは大きく違います。

このクロワッサンの値段を回顧するノスタルジックなサイトを見つけました。80年代には、2フラン40円ぐらいだったクロワッサンは、いまや、1ユーロ弱、120円するわけです。パリではもっと高い。常食であるパンがこんな按配ですから、飲み物、外食となると、途轍もない物価高となっており、消費できない社会となったことは明白です。

大学の近所のチェーンパン屋でさえ、ちょっとサンドイッチを買って、飲み物つけると1,000円です。普通の学生はだれも買っていません。パリでカフェに入った人なら、昼飯で1人軽く25ユーロ・3,000円ぐらいは行ってしまうことをお分りいただけるでしょう。日本では1,000ベロもありますし、3,000円あれば、十二分に居酒屋で酒肴を食べられます。

人々の感覚こそが、実際の数字で測る景気にまして、人々の思考や、政治への欲求につながっていくものだと思います。また、ヨーロッパが構造として前近代的というか非現代的というのは、日本人なら観光客でもわかると思います。

パリのメトロはほとんどが、作った当時のままで、エスカレーターもなく、車両はいつまでも古いし、その小ささをして、現代の人口増加にすら耐えられません。それでいて郊外まで路線を延長するから、小さい車体で、ただでさえ短い編成のメトロが常時満員電車となってしまうように、昔のものに、継ぎ足し継ぎ足しでやっていく欧州のものづくりへの姿勢は、現代の必要を満たせません。

さらには、この社会構造の現代化のスピードも、西欧と東欧などでは異なってきます。例えば、産業がフランスよりもさらに遅れているチェコは、旧式の車や、いかにもな共産の街並みが残るし、そもそも、EUなのにユーロではありません。社会整備費が国家財政に追いつかず、ユーロへの移行がサスペンドされているわけです。ですから、ユーロなり円を両替した後は、物価は安いし、為替はいいし、一時的に金持ち感覚に陥ります。

旅行者にとっては、確かに、小国乱立の欧州にあって、単一通貨でしかも、飛行機は国内線として、国境はなし、というものは楽ですが、欧州の各国は一つの欧州なのに生活レベルが違うので、生活者の目線では、楽ではありません。逆説的に、フランスでよく言われる笑ってしまう話があります。

「スイスで働いてフランスで住む」

教員の間でもそうです。フランスは公務員の給料はよくないので、教員といっても貧乏です。しかし、勝ち組は、スイスの大学に就職する訳です。スイスの平均月給は、2014年で4,000スイスフラン=3,270 euros=37万ぐらい。フランスの倍。

物価は高いですが、給料もいいということで、スイスで働いてフランスで暮らすというのは、憧れな訳です。スイスはEUに加盟しようとしたこともありましたが、結局長期的に見て利がないと判断しやめました。イギリスは入ってみてやめることにしました。

この両国は、グローバル化で亡国になることを知っており、大きな流れに巻かれない、国家の独立自尊を知り、結果国民の生活を守るということで、立派だと個人的には評価しております。イギリスはEUでも、ユーロにしませんでしたし、ユーロでない国が、強くなるために単一通貨にしたユーロに勝つと言うことは、本末転倒なことでありました。(世川祐多

音楽は「訛り」を楽しむものである。

Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

音楽ストリーミングサービスSpotiyで、2018年にもっとも聴かれたアーティスト(個人)のうち、4人がラッパーであり、2人は中南米出身でいわゆるラテン的なリズムの曲がヘビロテされたことになる。同時代のポップ・ミュージックに少しでも興味がある人なら、アーティスト名や曲名は知らなくても、この辺の曲は耳にしているだろう。

事前に強調しておくが、ここで書く「訛り」というのは「正しい発音やイントネーション」がどこかにあって、それに対する「正統的でない発音やイントネーション」という意味ではない。音階が「ヨーロッパ古典音楽」で使われてきた「ドレミファソラシド(など)」が正しくて、ジャズやブルースで使われる音階が正しくない、というわけではないように、だ。むしろ、ジャズやブルースは、「ドレミファソラシド(など)」ではない音階を楽しむ音楽、という言い方さえできるかもしれない。それを「訛り」を楽しむ、と言い換えてみたらどうだろう?

初期のYMOは、それまで人間の演奏による「グルーヴ感」や「ノリ」を追求してきた手練れのミュージシャンが、コンピュータ(シークエンサー)に音楽を演奏させることで「グルーヴのないリズム」のおもしろさに目覚め、それを追求していたという。もちろん、彼らはアーティストでもあるので、その「グルーヴのないリズム」がわかってしまうと、次には「機械・数値的な計算でグルーヴを作り出す」というメタレベルな音楽制作に入っていった。これを、計算で「訛り」を作り出す、としてみたらどうだろう?

20世紀のポップ・ミュージックは、言うまでもなくアフリカン・アメリカンが持っている「ヨーロッパ古典的ではない」ビート感や音階感に依拠している。冒頭のSpotifyランキングでも、人種や国籍を問わず、アフリカン・アメリカン的なビート感の楽曲が大ヒットしているのがわかる。中でもラップは「訛り」そのものを楽しむ度合いが高いのではないか?

Spotiyのランキングに戻ろう。もうひとつの特徴「ラテン」だが、エド・シーランジャスティン・ビーバーも「ラテン」的なビート感の大ヒット曲をもっている(ビーバーの楽曲は2015年)。そしてこれは、定量的なデータではなく、年に数ヶ月は海外に居る私の極私的感触だが、世界じゅうで、ある程度自由にポップ・ミュージックが聴ける文化圏において(日本を除く!)は、「ラテンとラップがかかりまくっている」というのが率直な印象だ。ロックの8ビートからすれば、どちらも「訛っている」と言えなくもない

「訛りを楽しむ」のは、もちろん、音楽だけではない。日本で「お笑い」といえば「関西弁」が大きな勢力だし、方言をうまく使って人気が出るタレントも少なくない。もう5年以上前の話になるが、朝ドラの『あまちゃん』では岩手の方言が、確実に魅力にひとつになっていた。手前味噌だが、私が製作代表の一人に入っているアニメ映画『この世界の片隅に』も、(パフュームのライブでのトークも!)広島弁が楽しい。

ラップ、ラテン、そしてK-pop(さらに言えば数年前の”PPAP”)。ローカルな特徴(訛り?!)を持った音楽が、グローバルに大ヒットする。この傾向は、当分続くに違いない。

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本文ここまで、です。ツカサくん筆の『訛り』から思いついて、ちょっと転がしてみました。「そんなこと、とっくに知ってるよ!」という方も居るかもしれませんが、訛り感の強い楽曲と、訛り感の少ないEDM。ポップ・ミュージックの世界では、その両極の人気がはっきりしているように思います。

訛り

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

パートナーの仕事の都合で、この10月からカナダはトロントで生活しています。カナダのニュースを聴いているとよく耳に入ってくるのが「国境の南では(south of the border)」という表現です。これはもちろんアメリカのことを指しているのですが、ニューヨークに住んでいた時にはほぼ全く聴くことの無い表現でした。もちろん、アメリカでも南カリフォルニアやテキサスまで行けば「国境の南」という表現が乾いた風に乗って聴こえてくるのでしょう。その場合はもちろん、メキシコを指すわけです。

トロントはまさに国境に面した大都市で、目の前に広がる湖の向こう側はすぐにアメリカです。ナイアガラの方に行くと短い橋でいくつもアメリカとカナダがつながっています。先日、アメリカから送ってきた家具を国境で受け取りに出向いた時には気をつけて運転していたつもりでもうっかり、間違って国境を越えてしまうというトラブルに合いました。それも二度も。二度目は国境の検査官にこっぴどく怒られてしまいました。国境を越えるつもりがなかったのでパートナーはビザを携帯していなかったのです。

「オマカセ・フォー・キッズ」の日本語字幕をつけていると、頻繁に「国境のこちら側/あちら側」というコンセプトについて考えます。マスヤマ氏がこちらのエントリーで紹介していますが、「オマカセ・フォー・キッズ」は本格的な日本食を食べたことが無い海外の子どもたちに、和食のフルコースを振る舞い、彼らの正直なリアクションを撮影するというドキュメンタリー(未公開)です。

日本で生まれ育った我々からすると思い描くだけで胸がほっこりと温かくなるような、味噌汁や茶碗蒸しといった料理も、ニューヨーク、スペイン、フランスの子どもたちは「まずい!」と一蹴してしまうこともあるわけです。

料理や音楽など「国境を越える」と言われているものはたくさんありますが、それでもそれぞれの個人の体験や人生から独立して料理や音楽の良さが存在しているわけではないのだな、と思わされます。

アメリカからカナダに渡ってきた私からすると、カナダ訛りはやはり印象に残ります。寒い地方の訛りらしく、口をあまり開かずにモゴモゴと話す様子は「うーんいかにも訛りっぽいな」と思ってしまいそうになりますが、カナダ人からするとアメリカ英語の方が大げさな訛りに聴こえるわけですね。仕事でSarahという名前の女性に会ったのですが、私が彼女の名前を呼ぶと「私がニューヨーカーだったらそんな名前だったかもね」と言われてしまいました。料理も同じなのかもしれません。私なら全て「美味しい美味しい」とたいらげてしまうだろう和食のフルコースを、子どもたちが「これは食べられる」「これは美味しくない」と評価していく様子はなかなか見ていて解放的です。

と同時に、「お前たちも大人になったら大金を払って和食のフルコースを食べたくなるのだぞ、ウヒヒヒ」と意地汚い気持ちにもなります。子どもから大人になるにつれて味覚が変化する科学的な仕組みは私もよく分かりませんが、参加した子どもたちが数年後に自分の出演しているビデオを見た時にどう思うかは非常に興味があります。寿司に手すら付けない様子に憤りを覚えるのでは…というのは日本人の大人である私の希望的な(そして性格の悪い)予想です。

しかし食に限らず、自分が嫌いだったもの、無関心だったものが好きになる瞬間というのがあります。クラシック音楽に興味がなかった人が、一曲だけ好きな曲を見つける、そこから少しずつ自分が好きだと思う作曲家を見つけ始める。日本食は嫌いだと思っていたイタリア人がイタリア料理と似た和食メニューをきっかけに日本食の中でも好きなものを見つけ始める。こういった変化こそが人生を豊かにしていくのだと思うのですが、なかなか日常でこれを見つけることは難しい。「ほらこういう具合に比べてみると、こっちの方が良いでしょう」と自分の中に存在していたセンスを掘り出して見つけてくれるような人生の先生を見つけたら、その先生は離さない方が良いでしょう。

自分の周りの中に思わず見つけた興味の対象を、追求し始めて気付いてみたら国境の逆側に来ていた。ああ、そういえば昔の自分はこちら側の言葉を「訛り」だなんて呼んでいたな、と驚いてしまう。そんな事が、たくさん皆さんにも起きますように!

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本文はここまでですが、埋め込んだビデオはイタリア人作曲家であるAdriano Celentanoが1972年に発表したもの。アメリカのロック音楽がイタリア人である彼の耳にどう聴こえるかを模したものです。そうです、ここで歌われている言葉は全くのでっち上げ。「アメリカ人の歌っぽいもの」を作っているんですね。確かにボブ・ディランを思わせる歌い節です。

これを見ていると3歳の甥っ子が大人の話し方を真似ている様子を思い出します。「ごにょごのみゃみゃでしょー!」「だだだねらねらなのー!」とメロディと語尾(「でしょ!」や「なのー!」)だけを真似て意味の無いでっちあげ言語をずっと話しているのです。しかしいずれ彼ももっと多くの言葉を理解し話すようになると、このでっちあげ言語側の住人になるのです。そうか子どもは常にたくさんの“国境”を越えているのだな、と思う次第です。

 

Do Children Outside of Japan Like Washoku, the Traditional Cuisine of Japan?

Text and Photo by Masu H. Masuyama. Translated by Tsukasa Kondo

I was in Milan, Italy, and Barcelona, Spain for short movie productions. The idea was to invite local children between ages six and nine and serve them a full-course meal of washoku, the traditional cuisine of Japan, so that we could film their honest reactions and comments on the experience. Prior to these two locations, we shot two movies with the same concept in New York, America, and Burgundy, France. So, all together, we will have four episodes for this series. This is one of General Incorporated Association MAM’s non-profit projects, with which we aim to promote the Japanese culture through washoku. The videos will be released online in 2019 for anyone to watch for free.

These children had never had authentic Japanese food before, let alone a Japanese full-course meal. Every time I observe these kids from America or Europe eat washoku, I notice various interesting things. The first thing that caught my attention was that a lot of them chose to leave an entire dish or two untouched. Understandably, no one has left a meat dish untouched so far, however, a number of children did not even try fish, mushrooms, or anything raw. Their preferences were very clear with flavors, too. Almost no one liked the flavor of dashi very much, and to my big surprise, one child did not even like the taste of soy sauce. These reactions were expected because our productions do not factor each participant’s likes and dislikes into the menu and value their honest reactions. Still, I find myself surprised.

Washoku is a very unique culture in my opinion. Needless to say, the Japanese culture has been historically heavily influenced by China, and the very letters I’m typing now came from China. Among the big cultural elements of clothing, housing, and food, we can see strong Chinese influence on the first two especially in the pre-modern eras. With food, however, while it is true that we have some similarities such as rice being the main food and the usage of chopsticks and soy sauce, I believe in general we think of Chinese food and Japanese food very different.

In washoku, people typically eat fresh raw food such as raw fish and eggs on a daily basis. In America or Europe, only oysters and some other shellfish are consumed raw. Even in Italy and Spain, which are strongly associated with seafood, people don’t eat raw fish regularly (raw meat such as steak tartare is popular).

Of course, sushi is now very popular outside of Japan. You can easily find packed sushi at any decent supermarket. But if you take a close look, it mostly consists of cooked salmon, shrimp, or avocado. Rarely does it contain fresh raw seafood. If you want to eat sushi with raw fish, which Japanese people typically think of when they say ‘sushi’, most of the time you have to go to a pricey restaurant.

Sashimi, raw fish slices, is another regular dish at “Japanese restaurants,” which are often owned by non-Japanese people, and its name has become familiar to many regions across the world. However, again, it is pretty rare to find raw seafood sold at a regular supermarket as daily foods. Few cultures eat raw seafood. Therefore, their ways of fishing, killing fish (draining their blood), distributing, and selling fish are not compatible with raw seafood consumption.

To be clear, I am not trying to say, “Washoku is great, and the whole world should acknowledge its supremacy.” I am not implying that any cuisine is inherently better than others. What I am saying is that the Japanese cuisine is more unique than many other elements of the Japanese culture. There is no doubt that hamburgers, pizza, pasta, and some Chinese dishes are much more popular in the world than washoku.

What Would a Japanese Person Crave After a Long Stay in Europe?

Say a Japanese person has stayed for weeks in the United States or Europe. They are staying in a big city but at a hotel, so they do not have access to a kitchen. The city offers some Japanese restaurants but most of them are expensive yet not particularly impressive. What do you think they would crave in this situation?

My guess is that most Japanese people in this situation would say they crave “something with a light flavor.” Hiyayakko, or chilled tofu, soba, or thin buckwheat noodles with dashi soup, sunomono, or cucumber vinegar salad, etc.

I’ve asked a couple of European friends about this, and my impression is that they do not seem to relate to this ‘foods with a light flavor’ category so strongly. Of course, they have ‘light meals’ or ‘snack’ but these include ham and cheese, which are not ‘food with a light flavor’ to us. So, if a Japanese person is craving something with a light flavor at a restaurant or a café in Europe, their options would be limited to a salad or fruits.

Additionally, washoku often do without oil. Miso soup, ohitashi, or cooked spinach salad, pickles, chawanmushi, or steamed egg custard, and grilled fish are just a few typical recipes that do not use oil. A Spanish woman once said to me, “Cooking without olive oil, wine, or cheese, and yet making a delicious dish? That’s hard to imagine!”

Besides the ingredients and how we cook them, the Japanese lifestyle surrounding meals is unique. When a Japanese person eats bread, ham, and egg for breakfast, and Chinese food for lunch, what do you think they would want to eat for dinner? It would not be Chinese for sure. If they have pasta for lunch, they wouldn’t want Italian for dinner. In Japan, eating the similar foods for breakfast, lunch, or dinner, or every day is not popular, whether they are eating out or cooking at home.

However, in Europe, only foodies or some wealthy people have such a wide range of cooking methods and flavors on a daily basis. I was invited to three dinners at my friends’ places in Italy during my stay. What they served was very similar each time; cheese, pasta, and some salad. The drink was always wine. To some Japanese people, this could feel repetitive.

CNN published an articleon Dec 30th, 2015, which describes Tokyo as the ‘Best Food City’ heralding its high-quality ingredients, sophisticated skills and professionalism of its chefs. I visited Spain, Italy, and France this time. All of these countries are strongly acknowledged as countries with delicious foods. Indeed, they offer a lot of amazing dishes that really emphasize their local foods. When it comes to variation, subtlety, and details, however, I think I have to agree with CNN. I hope that you are now a little bit curious about our short movies. I cannot wait to bring you the honest reactions by the children to their first authentic Japanese full-course meals.

Nov. 15, 2018 / Tokyo /copyright Masu Masuyama

 

 

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料理は苦痛か?~フランスのキッチンから~

Text by Segawa Yuta    文:世川 祐多

おパリの庶民キッチン

6年間パリに住んで、3回家が変わったから、パリの典型的なアパルトマンのキッチンを経験した僕。

金をかけてリフォームしてIHにしてある家はもちろんあるが、パリのキッチンは、もちろん部屋が狭いからキッチンも狭く、ガスはあまり引かれていないから、電気コンロが主流である。

ヨーロッパの謎で、いつまでたっても旧式のものが、世代交代しないで存在する謎がある。

電気コンロ、IHに駆逐されていてもいいと思うのだが…

また、パリの人々は日本人のように、都市ガスだのにこだわって、ガスを常備したいするという気持ちがないと思われる。というより、パリの街は現代社会に追いついていないから、設備を増やすことは厄介を増やすだけである。

たとえば、人口増加に耐えられない、小さな6両編成のメトロ。またメトロには、ハンディキャップのある人や子連れ年寄りには酷なことに、新設の路線を除きエレベーターもエスカレーターもない。しかもあってもしょっちゅう止まっている。

昔々の建物に、細い配水管と電気をようやく設置しているから、全てにおいて使い勝手が悪く、しょっちゅう問題を起こす水回りと電気。

例えば、僕はウォシュレット欲しいなと思うが、トイレにコンセントなど設置されていないから、そもそもつけられない。そういう勝手の悪さである。

なので、ガスがあるということは、電気代+ガス代になるわけだし、設備管理も増えるわけで。ガスも時々あるけれど、パリには電気が精一杯なのである。

さて、これが、その電気コンロPlaque électrique

これが実に料理がしにくい。

熱されてしまうと、当分コンロが冷めない。そして、マックスの温度も火のようには上がらないから、炒め物とかがあんまり気持ちよく決まらない。チャーハンとかが水気が飛び切らなくてうまくできない。

だから、苦痛というわけではないが、料理をする気合が全く、入らない。

部屋が狭いと炒め物の匂いとかが部屋に充満するし…

ガスとキッチンから始まる料理生活

やはり料理をするには、それなりの広さの家。気分が高揚するキッチンが必要とは、僕の持論である。

僕はフォンテーヌブローに移住したばかりである。

フォンテーヌブローはパリの東南70キロにある世界遺産の地方都市で、緑豊かで、ロッククライミングの聖地でもあり、グーグルマップを見るだけでもこの街が特殊だとお分かりいただける。

この街は、こざっぱりしているから、どこかのタイミングで都市ガスの整備をしたと見え、都市ガス完備の我が家は、相当満足できるキッチンである。

やっぱりガスだ。

火加減の調整はうまく行き、煮込み・炒め・茹で・何でも思い通りにできる。

キッチンが満足できるものだと、様々のものにこだわっていきたくなる。

コーヒーの豆挽き、直火式のエスプレッソマシン、良さげな塩などなど、調理器具や調味料にも気合が入り、さながら貧乏独身貴族みたいなこだわりが出てくる。

こうなると人によるであろうが、料理がしたくなってくる。

形から入る男の僕のこと、なおさらである。中身は伴わなくてもよい。

わりに、家事は好きな方なので、それなりにこの家のキッチンや炊事洗濯を気晴らしを兼ねて満喫して、いつでも隠居し、主夫になる準備だけはしておく。

商店街とマルシェが生きている街

相当気に入って暮らしている街、フォンテーヌブローであるが、ここは火金日に立つマルシェが有名であり、野菜・肉・魚・チーズ・乾物・ワイン何でも美味いものが手に入る。

マルシェのある八百屋の親父は、車寅次郎ばりの口上で、お買い得の掛け声をあげるので、どうやらフランスにも紋切り型の口上があるらしい。

マルシェの野菜は新鮮そのもので、色からしていい。

魚は日本に劣るが、肉は赤々としていて、絶品。

ただし、どうしても日本に生まれ育った僕としては、フランスの食事は重いので、軽い料理の方がいい。

なんだかんだ、自然と地場のもので、和風のようなものを試行錯誤していくことになる。

例えば、日本ではなかなかないが、贅沢にも、フランスは鴨に潤沢である。

鴨を買ってきて、塩と胡椒で、焼いて、食べる。付け合わせは何かの野菜。

鴨で、ウイキョウだのアンディーブだのの野菜をブッ込んで鍋にしても美味い。

こういう、野郎の料理でも、十二分に料理は日々の気晴らしになる。

本当は日本酒党だから、そういきたいが、そこは赤ワインで辛抱。

街の中央にある、商店街には、気に入った八百屋・肉屋・魚屋・ワイン屋・シャンパン屋ができたから、そこに馴染みになり、ちょこちょこ美味そうなものを買っておく。

料理には気持ちの高揚する買い物も重要な要素である。

フォンテーヌブローと、日本の市場やデパ地下や、谷中銀座的商店街は、料理系で日々の庶民生活をワクワクさせてくれるお買い物空間であることは間違いない。

快楽としての料理

ルーティーンは、僕が最も苦手とすることの一つである。

何かの刺激や変化がないとどうもつまらない。

酒と女は修行ばかりでつらい男の人生を慰める絶対不可欠のこの上なく大きな要素。

そして、料理人ではなくとも、日々の生活で料理をするということは、女ほどは快楽をもたらしてはくれないが、男のプチ快楽にはなりうる。

女の人が、料理が苦痛というなら、それは、家事の一環として、何か家族に食べさせなきゃということで、レシピを頭の中でひねり出しながら、何とか料理をつくらなくてはいけないというルーティーンと化すから、苦痛なのかもしれない。

自分に何かを強いる時、それは苦痛でしかない。

僕は運転が好きだからいいが、運転嫌いの人が相当いて、必要に迫られて、毎日のように運転せざるを得ない人たちは、結構苦痛らしい。

主婦・主夫でも、料理したい。料理しよう。という気合からの行動ではなく、料理しなきゃになった時点で、もう終わっている。

そういう時は、ルーティーンから抜け出すトライはした方がいいかもしれない。

一度、とある会社で、そこのキッチンを使って、家庭に来てレストランをしてくださる、すごい料理人の方の料理を堪能したことがある。家庭をレストランにするというひねった趣で、めちゃくちゃ面白いし、私的空間で料理人を呼んで料理を食べれるなんて素敵だ。

こんな風に職人さんを家に呼んじゃう。とか、母親や妻としてのルーティーン料理をサボタージュして、旦那や子供を数日間奴隷のように酷使して家事をさせるとか、なにかゲーム要素を取り入れてもいいかもしれない。

さて、私は料理人ではなく、普通の男なのでルーティーンとしての料理ではなく、適当に料理の道楽を極めてみたい。

男なら、タモさんぐらいの道楽者にはなってみたいものだ。

『料理が苦痛だ』

Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

料理が苦痛だ』(本多理恵子著/自由国民社)という本を読んだ。「料理が苦手」でもなく「下手」でもない。当たり前だ。著者は鎌倉でカフェを経営し、人気の料理教室を主宰する女性なのだから。

私自身は、料理が「得意」でも「上手」でもないかもしれないが、「好き」であることを公言している。しかし、この本を読む前から強く感じていたのだが、私が「料理好き」と気軽に言えるのは、それが義務ではないからだ。1人暮らしなので、好きな時に、好きなものを、好きなように作ればいい。あり合わせのモノでチャチャっと作ることも多いが、2日前から準備して(それなりに)凝った料理を人にふるまうこともある。

本書の著者が言う「苦痛」とは、「家族のために」「ちゃんとした料理」を「作り続ける」ことだ。確かにそうだろう。家族が終日居る日などは、朝・昼・晩と、準備や片付けを含めれば、1日のほとんどを料理に割かなければならない。一方、家事の中でも掃除や洗濯が「好きではない」人は多いかもしれないが「苦痛」とまで表現する人は、あまり居ないのではないか?それは、料理だけが「毎回違うアイデアと作業」を期待されるからだ。

そしてこの「期待」は、かなり日本的な現象ではないかと思う。本書でも、料理が苦痛であることの理由のひとつが「『毎日』『毎回』違うおかずを作るという呪縛」と表現され「日本ってご飯に手間をかけすぎてない??」と疑問を呈する。そして、苦痛や呪縛から逃れるための対処法が爽快なくらいシンプルだ。

「料理をやめる!」

これは、自分にとっても家族にとっても、毎日あたり前のようにやり(やってもらい)、食べていた料理/食事という活動を、いったん突き離して、それにどんな価値や意味があるのかという「対象化/相対化」の手順なのだと思う。私自身は、料理ではなく「食べるのをやめてみる」(断食!)を、年に2~3回、伊豆にあるリゾート的な専門施設でやるのが、ここ数年の通例になっている。「食べないこと」ほど、食の価値や意味を深く実感させられる行為は無い。少なくとも、私にとっては。

これは、他のことにも応用できそうだ。

・スマホもPCもやめてみる!
・徒歩以外の移動手段をやめてみる!
・性的な行為をやめてみる!
…etc.

本書では、料理をやめるための準備期間、そして実際にやめている間に、どういうことをすべきなのか、とても納得感のあるアドバイスが書かれている。そして、自分で決めた一定期間の後は「料理を再開する」のだが、そこに挙げられた「これなら作れるレシピ集」が、料理好きにとってはとても興味深い。本でもネットでも「簡単、ラクチン、○分でできちゃう!」という売り文句のレシピは数多いが、それとはやや発想が違い、料理をする人の「やる気」をもっとも重視するのだ。いわく「料理をしなくてもいいから、まずはキッチンに立ってみましょう」。

レシピの詳細など、ぜひ本書にあたってみてほしいが、ここで、私が日常的に「おもてなし」で使う、料理ともいえない「食べ方」の方法を紹介しよう。これは、今まで出した人全員にウケた「最初の一品」である。

材料
・木綿豆腐(なるべく豆の味が強そうなものがベター)
・オリーブオイル(エクストラバージンがベター)
・塩
・醤油

下準備
・豆腐をペーパーでくるみ、重しを乗せて皿を傾け、室温で1時間くらい水を切っておく。

レシピ(というほどでもない…)
・豆腐を小さく(切手2つ分くらい)、薄く(1cmくらい)、4つ分切る。
・4通りの味つけで順番に豆腐を食べる。

1:何も味つけしない。
2:少量の塩
3:塩とオリーブオイル
4:少量の醤油

冷奴、というか、豆腐をそのまま食べようとする場合、多くの人は「何も考えずに醤油をかける」のではないだろうか。もちろん、ショウガ、ネギ、鰹節などをかける人も居るだろう。しかし、ちょっと待った!皆さん「素材の味を楽しむ」のが好きではないんですか?豆腐って(もちろんモノによるが)、そのまま食べても充分美味しい。この順番通りに、小さな豆腐を口にすると、最後の「醤油」がいかに強い味つけの調味料かが実感できる。

これは、私が行く「断食施設」で、3日めの「回復食」に出てくる食事からヒントを得た食べ方だ。1日めは薄い味噌汁のみ、2日めはスムージーとスープのみ、という「食べない」日を過ごしてきた舌と脳には、塩も醤油もつけない(鰹節は少量かかっている)ごく少量の豆腐が、最高の美味と感じられる。この4種以外にも、マヨネーズだろうが、フレンチマスタードだろうが、一般的に味つけに使われる調味料なら、なんでも試せるはずだ。この手順ですら「苦痛」と感じる方は、おそらく「料理に興味が無い」のだと思う。
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ツカサくん、ユウタくん、本文は以上です。書評にするつもりで書き始めたのですが、最後、まさかのレシピ!笑。このシリーズ、続くかもしれません。

バルセロナとミラノで和食を!


Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

「和食」は世界の子どもたちに受け入れられるか?

ショートムービー『オマカセ・フォー・キッズ』の撮影で、スペインのバルセロナとイタリアのミラノに行ってきた。ムービーの内容は、現地の子どもたち(小学校低学年)に、本格的な和食のフルコースを食べてもらい、そのリアクションやコメントを撮影、編集する、というものだ。これまでにも、ニューヨーク、フランスのブルゴーニュで撮影をしてきて、今回と合わせて4本できることになる。「和食」を通じた日本文化のプロモーションを目的とする、一般社団法人MAMの非営利事業のひとつであり、2019年にはネット上で無料公開の予定だ。

フルコースどころか、普通の和食もまったく知らないアメリカやヨーロッパの子どもたちが、初めて本格的な和食を食べるところを見ていると、毎回色々な発見がある。まず「食べないものが多い」のだ。肉を食べない子は、今のところ居なかったが、魚がダメ、キノコがダメ、生ものがダメという子は少なくない。味つけにも好き嫌いがはっきり出て、ダシの味が好きという子はほぼ皆無、一番驚かされたのは「醤油がダメ」という子だった。子どもたちを選ぶときに、食べ物の好き嫌い等は考慮せず、自然なリアクションをしてくれることを優先しているから、という理由もあるにはあるが。

「和食」というのは、実はとても不思議な文化だと思う。言うまでもなく、日本文化は歴史的に中国から大きく影響を受けていて、ここに書いている文字の一部も「漢」から来たものだ。衣食住のうち、衣も住も、近代以前は中国の影響が強いと言っていいだろう。食も、コメが主食なこと、箸や醤油を使うことなど、中国と似ている部分が無いわけではないが、一般的にイメージする「中華料理」と「和食」は、かなり異なっているのではないか?

典型的な例を挙げれば新鮮な「生魚」や「生卵」を日常的に食べるのは、とても和食的である。アメリカ、ヨーロッパでは、生で食べるのは牡蠣と貝の一部のくらいで、シーフードのイメージが強いイタリアやスペインでも、生魚を日常的に食べる習慣は無い(生肉はタルタル・ステーキとして人気がある)。

もちろん、海外で「スシ」は大人気であり、ちょっとしたスーパーならパック入りのものがごく普通に置いてある。しかし、その中身は火が通ったサーモン、エビ、アボカドなどがメインで、新鮮な生の魚介類が入っていることは稀だ。日本人がイメージする生魚メインの「スシ」を食べるためには、それなりの値段を取る飲食店に行く必要がある場合がほとんどだ。

また「サシミ」も、いわゆる「ジャパニーズ・レストラン」(日本人以外の経営も多い)では定番メニューだし、料理の名前としても世界各地で通用する。しかし、日本のようにスーパーでごく普通の食材として様々な魚介類が生で置かれているということは、まず無い。そもそも、生食する文化が無いので、魚の獲り方、絞め方、輸送、販売の仕方までが生魚に対応していないのだ。

ここで念の為、記しておきたいのだが「和食は素晴らしくて、世界に冠たる文化だ」という優劣を含んだ含意で書いているわけではない。「食」は、数ある「日本文化」の中でも、特にユニークなのではないかという仮説である。世界レベルで見れば、和食よりも、ハンバーガー、ピッツァ、パスタや、一部の中華料理の方が圧倒的にポピュラーであるのは間違いない。

欧米に長く居ると食べたくなるのは?

さて、あなたが、すでに数週間という単位でアメリカやヨーロッパに滞在しているとしよう、宿泊はホテルなのでキッチンは無い。大都市なので和食店もあるが、だいたいの場合、高額でそれほど美味というわけでもない。あなたは、何が食べたいと思うだろうか?

おそらく、多くの人は…

「あっさりしたもの」
「さっぱりしたもの」

…が食べたい、と言い出すのではないだろうか?冷奴、蕎麦、酢の物…etc.。

これは、複数の欧米人に軽く聞いたのだが、彼らは「あっさりしたもの」や「さっぱりしたもの」という概念が強くないように見える。もちろん「軽い食事」という表現は、ごく日常的だが、それにはハムやチーズも含まれてしまうので、我々がイメージする「さっぱりしたもの」というとレストランやカフェではサラダやフルーツ、くらいしか選択肢が無いのだ。

また、和食では料理に「油」を使わないことはよくある。味噌汁、おひたし、漬物、茶碗蒸し、焼き魚といった典型的なメニューでは、油は不要である。これもあるスペインの女性から直接聞いた話だが「オリーブオイルもワインもチーズも使わないで料理をする。それでも美味しいものができるなんて、想像もつかない!」のだそうだ。

和食という「料理」から離れてみても、日本の食生活は独特といえる。あなたが、朝はパンとハムエッグ、昼は中華だったとしたら、夜には何が食べたいと思うだろうか。おそらく中華ではないだろう。昼がパスタであれば、イタリアンではないだろう。そう、日本では「毎日、朝・昼・晩」そして毎日と同じようなものを食べることは、あまり歓迎されない。それは外食であっても自炊であってもだ。

しかし、私が知る限り、日本のような幅広い調理法や味付けの食事を、日常的にしているのは、ごく一部のフーディと呼ばれる飲食マニアか、さらにごく一部の富裕層だけである。今回、イタリアでは合計3回、イタリア人の友人宅で食事をごちそうになったのだが、出てきたのは、日本的感覚からすれば判で押したように似たようなもの「チーズ、パスタ、つけあわせの野菜」、そして飲み物はすべてワインである。

2015年12月30日のCNNの記事は、東京は「世界一の美食都市」であり、食材も素晴らしく、料理人の意識も技術も極めて高いとしている。今回、私が訪れたのはスペイン、イタリア、フランスと、日本では「美食」のイメージが強い国ばかりで、実際に現地ならではの素晴らしい料理も少なくないのだが、料理のバリエーション、繊細さという意味では、CNNに同意できると思う。世界の子どもたちが、本格的な和食を、どう食べたのか?ムービーの公開まで、少しお待ちください。

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本文、以上です。ツカサくん、ユウタくん、前回から一ヶ月以上も空けてしまって、ご心配おかけしました。フォンテーヌブローのユウタくん宅を訪ねてからも、すでに一ヶ月…。まぁ、ある種のユルさはあってもいいと思うんですが、ちょっとユルすぎですね(笑。埋め合わせ(?)に、数日後にもう1本アップします!

フランスナイズ Oui ou Non !? ~郷に入れば郷に従いながらも、残したい日本人性~

Text by Segawa Yuta    文:世川 祐多

大阪の人は明るくて、すぐボケに乗ってくれるというように、みんながみんなという訳はなくとも、国民性、県民性といったある一定のエリアの人たちのなんとなく共通する性質というものがある。これは科学では立証しづらい概念でもある。

でも、たとえば、車が全く来ない車道でさえ、横断せずにモラルを優先するのが、日本人ならば、車が来ないなら渡るべしという合理性を優先するのがフランス人。これを国民性と言わずしてなんと言おう。

たしかに、こちらに住むと、信号無視を平気でしてしまう体になる。逆に、車が来ない赤信号を渡らずに律儀に待っている方が杓子定規でおかしい気さえしてくる。

この件に関しては、自分自身「別にまあ、人に迷惑かけてる訳じゃないし、フランスだからいいんじゃん」と思っているが、他方「こうはなりたくないし、日本人の一人としても、フランスナイズしないでおこう」という所作がある。

この最たるものは、電車や、バスで絶対に並ばないフランス人の習性である。

パリでは特に、メトロのドアが開いた途端に、降りる人を待たずに人がなだれ込んでくる。降りる人をドアのサイドによけて通り道を作ってやることなどない。

であるから、否応なしに人を押しのけざるを得ない状況になることが多い。

メトロにも日本のように乗車位置などは、マーキングされていないし、後から来た人間たちが先にホームにいた人に憚ることなく、どんどん乗車していく。

これは、地方でもバスに乗るときなどに、バスが来るやいなや、随分前から待っていた人がいて、年寄りもいるのに、それに構わず、人々がじゃんじゃんバスに乗車していくのが常だから、現代フランス人は人品において、残念な人が多いのだと思う。

この点に関しては、フランス人は、並ばないことで有名で、彼らが蔑視する中国人を非難することはできない。極めて卑しきフランス人の習性と言える。

日本社会も多々問題はあれど、例えて、記憶に新しい、東日本大震災における、秩序乱れぬ人々に対する世界中の驚きと賞賛は、日本人が秩序を重視するという国民性なのだということを再確認させてくれた。

こちらに住めば、フランス人は天変地異や戦が起きれば、人様のために、秩序のためにという心より、自分が助かり、自分が安全であればと、エゴに走るに違いないと気づかされる。

故に、日本人にとっては秩序を乱さないというごくあたりまえのことを、やたらめったら世界の国々が称揚し珍しがるのも宜なるかなと思う。

他方、フランス人のまだマシなところは、日本に観光などで来た時に、そこは日本の文化や秩序を尊重して、並んだり、おとなしくできるところにある。

きっと、本当は並ぼうと思えばできないわけではなく、やればできる子フランス人であるとは、思っている。救いようのないバカとまではいかない。

逆に日本人が海外に住むとなれば、郷の文化に溶け込み、郷の習俗にある程度従いつつも、日本人としての美徳は失うべきではないと考えている。

僕は、バカもたくさんやる。

しかし、一日本人としての自負と矜持があり、たとえフランスに住んでいようとも、30秒も車が来ない赤信号を無視するというような人様に迷惑をかけないルール違反はしたとしても、やはり所作には気をつけ、割り込んだりするという、卑賤の振る舞いに関しては決してフランスナイズされず、日本にいるときのままにありたいと思うのである。

マスヤマコムロスバゲシーンの妄想

日本では普通起こり得ないし、万一起こっても、お詫びの金品とともに、丁重にケアがあるはずであるロスバゲ。しかし、現代ヨーロッパ人の性質といえば、まず、係員は「私のせいじゃない」
と言葉と態度で突っ張ってくるはずである。であるから、こちらもそれ相応に構えて対応しなくてはならない。

日本人にも鬼畜クレーマーなど変なのはいるが、通常欧州にて、被害者が非日本人の場合、こういう時、わめき散らしたり、怒鳴り散らす光景を目にすることは多い。

また係員は、こういう問題対応にあたっては、怒鳴られるのが常だし、係員的職業は人類平等を建前とする欧州世界にあって、実際社会的地位も低いから舐められているので彼らも突っ張るし、という悪のスパイラルである。

これに我ら日本人が巻き込まれた時はどうなるのだろうか。

私はマスヤマコムを知っているが、マスヤマコムもまた、うんざりするような、ロスバケ初体験に遭遇された時、ギャーギャーわめき散らしたりする人ではないし、係員に喰ってかかったりしていないことは容易に想像できる。

九鬼周造先生のおっしゃる典型的日本人の観念「諦め」
を発動させて、諦めていたロスト中のバゲージが謎の出現を見せたところで、ラッキーと喜んでいたに違いない。

確かにロスバゲの被害など、不都合の極地であるが、日本人の所作の美は、こういうことが起きたときに、騒いでも何にもならないんだから、その運命を諦めて受け入れ、スマートに係員に対して交渉することであり、これははっきり言って世界中の人を見渡してみても、日本人ぐらいにしかできないと思っている。

コンドウツカサの久しぶりの日本上陸シーンの妄想

僕もさしてフランス語が上手くないのに、たまに日本語が出づらくなることがある。

これはフランスに居すぎて、ちらほらフランス語で、頭が考え出したという証でもある。

日本に帰れば、簡単な単語を失念してルー大柴になりかけたり、赤信号を無視しようとしたり、特に、左側通行にすぐに順応できず、横断歩道では右に首を向けて車が来ないか確認しなきゃいけないのに、左に首が動いたりおかしなことになる。

きっとコンドウ氏も日本語を話していて、言葉の合間にYou knowとか入れたくなってるのではないかと妄想する。

しかし、コンドウ氏の文を読めば彼がアメリカ風を吹かそうとしている訳ではないことに気づく。

ここはおフランスに長年おわします世川大先生が仰せのこととして受け取っていただきたいのですが、アメリカ帰りの人間が日本でどういう振る舞いをするかはしりませぬが、おふらんすの日本人が日本に帰った時に、おフランスの風を意図的に吹かそうとして、日本人を見下し、カッコつけ高飛車になるという現象が多くございます。

「きゃー、おフランスすてき!」「おパリ帰り!」みたいな、日本人の妙なフランスへの憧れが、フランス風を吹かす嫌味な人間の存在の余地を許しているわけでございましょうが、これはいかがなものかと存じます。

海外に居すぎて、その郷に上手く溶け込めたために、日本に帰った際に、条件反射的に体が動いてしまっている海外帰りの人なのか、それとも、海外に居た割には何もできないまま、コンプレックスの裏返しのように、日本で私は洋行帰りなのよの風を吹かす奴なのか、日本の皆様にぜひ香道のように嗅ぎ分けていただきたく存じます。